『風立ちぬ』と「美しい」ということ

 大人は利害で、青年は善悪で、少年は美醜で説き伏せよ。


 「美しいもの」に対して心惹かれる気持ちは少年の心からくるものだという意識があります。「美しい」というとどうもお高くとまっているようなので「カッチョイイ」とか「可愛い」とか、そういった言葉で言い換えても良いかも知れません。映画『風立ちぬ』では「美しい」という言葉が1つのキーワードになっていましたが、美しいものをテーマにした作品を「第二の青春」を扱った作品として評することが出来るかも知れません。


 実はこのテーマで文章を書くことに長らく抵抗があって、というのは、これは正に私自身の問題だったからなのですが、私が青年として第二の青春を、今まさに、悩みながら生きているという問題を突きつけられたと感じたわけです。

第一の青春

 大人のやっている事の薄汚さに気付き、それを批判して乗り越えようとするエートスが青年期にはあります。ライトノベル作品にも、正義をテーマにしたものも多いでしょう。
 ジュヴナイルの世界観は、主人公の破天荒な性格や想いの強さといったものが窮屈な現実や大人の事情を突き破る原動力として働きます。現実問題を考えれば、論理的に破綻していたとしても物語的には破綻しません。「俺はお前を絶対ぇ許さねぇ」と口にすれば、どんな強い敵にも勝てます。
 少年を乗り越え、大人を批判することに青年のアイデンティティがあります。ここでは「美しいこと」よりも「正しいこと」が求められます。

第二の青春

 大人を批判しつつも、自身が大人にることを受け入れなければならないとき、矛盾が生じます。『風立ちぬ』では、美しい飛行機を作るために戦争の道具を作らされる矛盾、仕事に専念するために身を固める矛盾など、随所で矛盾が語られています。
 第二の青春に横たわるのは大人の世界観です。第一の青春のようにラノベ的に戯画化できないぶん、欲望が剥き出しになります。少年、青年の頃に求めた「美しいこと」や「正しいこと」を大人の世界観でどのように処理してゆくのかが課題となります。

男のロマン

 大人になってゆく過程で最後に残された美しい感情を「男のロマン」と呼ぶのかもしれません。……ああ、恥ずかしい! これは第一の青春の側からは「卑怯」だと罵られることでしょう。また少年の側からは「ダサい」と馬鹿にされることでしょう。こうした批判に耐える覚悟こそが、その人の「成長」なのかも知れません。
 現実と折り合いをつけながらも、譲れない部分をどこか持っていて、そういう感情が、もしかすると生きる意味というやつなのかも知れません。よく分からないですが。

ヒロインについて

 『風立ちぬ』は、基本的に菜穂子萌えの作品だと感じました。宮崎作品全般にいえることですが、ヒロインに背負わせている使命が大きすぎますね。ナウシカはファンタジーの仮面をかぶっていますが、菜穂子は極めて現実的なキャラクター設定です。
 一般に女子の方が、男子よりも精神的に成熟するのが早いと言われています。正直な話、私も(他の人もそうみたいですが)、精神的に成熟している同年代の女性に引け目を感じたり、嫉妬を感じたりすることがありました。しかし「女性ってそういうものなのだ」と思ってしまえば気は楽です。確かにイメージの押しつけは乱暴なんですけど、向こうも乱暴してくれれば後ろめたさは感じません。
 こうした女子への葛藤は『風立ちぬ』にはありません。上流階級の「お坊ちゃん」と「お嬢さん」どうしの恋愛ですから、互いに精神的に成熟するのが遅いという問題もあるかと思います。菜穂子のもつ負の部分については作品では言及がないため、菜穂子のヒロインとしての「格」の高さに、次郎の身勝手さが目立つのですが、一方で私は二人はお似合いだという印象も持ったので、バランスが取れているのかも知れません。

少年という罪

 作品では、次郎は肯定も否定もされませんでした。「ただ美しいものを作りたいだけ」という言葉は純朴なエンジニアによる、戦争や産業社会への批判に聞こえる一方で、戦争に荷担しておきながら、その責任から目を背ける者の子供じみた言い訳にも聞こえるのです。美しいものは大人の世界観からも、青年の世界観(第一の青春)からも絶えず、批判を受けることになります。
 しかし、少なくとも次郎は美しく描かれていたと思います。もし同じセリフを彼の上司の黒川氏が言ったら似合わないでしょう。けれど、そうは言っても、一見「ダサい」ように見える黒川氏も、黒川氏の味があり、かっこいいと思うのです。無責任な少年を制御しつつ、ロマンを抱けるような美しさを求めたいものです。