価値相対主義の行き着くところ

 何となくもやもやしている事があるので、久しぶりにエントリーを投稿してみます。


 「人それぞれに価値観は違う」という哲学を掲げて、「あなたの行動や発言は間違っていますよ」という他人からの指摘やアドバイスを拒絶しようとする人をよく見かけます。「価値観」というのは、そんなに沢山溢れかえっているようなものなのか、私には分かりません。
 近代の社会学が語る「大衆」という眼差しに対して「私は大衆ではないし、我々は大衆ではない」というふうに、中指を立てるスローガンとして分かりやすいのです。大衆を救ってくれるはずの言説の中に潜んでいる選民的な眼差しが癪に障るのは共感できます。さりとて、「人それぞれに価値観は違う」という扱いやすい標語を自分の意見として重ねてゆくのは、何か違うな、と感じます。


 世の中に価値観が幾つもあるようでは、世の中の秩序は乱れるし、良くないように思います。自分と同じ価値観をもった人が、たまたま自分の周りにいればラッキーです。ただ周囲にいる人には少なくとも自分が理解可能な価値観をもっていて欲しいのです。こういう状態を「秩序」というのだと思います。「人それぞれに価値観は違う」とは言っても、例えば殺人まで許容する人はいないでしょう(広い世界を探せばいるかも知れませんが、いないと言っても過言ではないでしょう)。
 自分が理解可能な価値観をもっている人を増やすため、一見簡単そうにみえる方法が、自分自身が様々な価値観を理解することです。人を変えるのは難しいから、自分が変わればいいという理屈がありますが、これが精神的に難しいのです。
 そこで、もう少し精神的に楽な手段をとります。「理解できない価値観をもった人とは関わらない」という方法です。こうした棲み分けはお互いのテリトリーが保証されている限りにおいて有効です。
 そして棲み分けは連携や団結の道を閉ざしますから、震災のように「社会全体で」とか「多くの人が協力し合って」大きな問題を解決しないといけない事態に直面したとき、大きな障害となります。下手をしたら、問題が解決されずに、泣き寝入りをしなければならなくなるかも知れません。
 より多くの味方を手に入れるには、自分自身がより多くの人々の味方にならないといけないわけです。マジョリティはマイノリティに配慮すべきだし、マイノリティはマジョリティに愛想を尽かされないように、頑張って歩み寄るべきだと思うのですが、この感覚はおかしいでしょうか。


 今の時代は、そこまで連携しなくても色々な問題が(過去の時代の人々の努力のおかげで)解決できてしまう時代です。にも関わらず、多くの社会連携が不可欠だった時代の古びた制度や風習が残り続けていて、「同調圧力」だとか「個人を大事にしない」といった社会的な公害が存在していると思います。また、もっと古い時代から存在する差別や偏見もあって、今でも残り続けている部分もあります。そういう錆び付いた制度や風習に異議を唱えるのに相対的な価値観は役に立ちます。しかし社会連携といった、制度や風習の意味と向き合わずに、ただ拒絶するだけでは、何も生み出さず、大切なものを失ってしまうのではないかという漠然とした危機感を抱いています。
 全ての価値観が平等だとは思いません。正しい価値観が複数あって、間違った価値観も複数あるのです。また「正しい/間違っている」という二元論ではなく、妥当性みたくアナログな尺度で扱われるものだとも思うし、その妥当性も状況によって変化するものだと思います。
 価値観については、決して「どれも正しい」とか「正しいものなんてない」というふうに評価してはならないものだと思います。ほとんどの状況で、「正しい答え」と「間違った答え」があって、一部の状況では「妥当な答え」と「あまり妥当でない答え」があって、本当にごく一部の状況下では「迷う」と言えるようなものであるべきなのです。
 「正しい/間違っている」を判断するのは、己の主観です。様々な人の価値観に触れ、吟味し、議論し、一生懸命に生きることを通して、己の価値観を鍛えることが重要です。こうして鍛え抜かれた価値観であれば、説得力のある言葉が使えるし、自分に自信をもつこともできるし、多くの味方を得ることもできるはずです。自分が「正しい」と信じていることを全力で証明しようとすること、他人の話は拒絶せずにちゃんと聞いて「なるほど、その通りだ」と思ったら、素直に自分の考えに取り入れること、こうしたことに留意すれば、自分の主観は、より間違いの少ない主観となり、まともに文句を言える人は減るわけです。


 「人それぞれに価値観は違う」という哲学は正しいです。しかし余計なお節介を拒みたいのなら「放っておいてくれ」と言うべきです。自己主張をしたいなら、自分の主観に誇りと責任をもちたいものです。「人それぞれに価値観は違う」というよりも「私の価値観は○○だ」と説明できた方が、社会連携の道は模索できるし、仲間も増やせるのではないかと思います。

『風立ちぬ』と「美しい」ということ

 大人は利害で、青年は善悪で、少年は美醜で説き伏せよ。


 「美しいもの」に対して心惹かれる気持ちは少年の心からくるものだという意識があります。「美しい」というとどうもお高くとまっているようなので「カッチョイイ」とか「可愛い」とか、そういった言葉で言い換えても良いかも知れません。映画『風立ちぬ』では「美しい」という言葉が1つのキーワードになっていましたが、美しいものをテーマにした作品を「第二の青春」を扱った作品として評することが出来るかも知れません。


 実はこのテーマで文章を書くことに長らく抵抗があって、というのは、これは正に私自身の問題だったからなのですが、私が青年として第二の青春を、今まさに、悩みながら生きているという問題を突きつけられたと感じたわけです。

第一の青春

 大人のやっている事の薄汚さに気付き、それを批判して乗り越えようとするエートスが青年期にはあります。ライトノベル作品にも、正義をテーマにしたものも多いでしょう。
 ジュヴナイルの世界観は、主人公の破天荒な性格や想いの強さといったものが窮屈な現実や大人の事情を突き破る原動力として働きます。現実問題を考えれば、論理的に破綻していたとしても物語的には破綻しません。「俺はお前を絶対ぇ許さねぇ」と口にすれば、どんな強い敵にも勝てます。
 少年を乗り越え、大人を批判することに青年のアイデンティティがあります。ここでは「美しいこと」よりも「正しいこと」が求められます。

第二の青春

 大人を批判しつつも、自身が大人にることを受け入れなければならないとき、矛盾が生じます。『風立ちぬ』では、美しい飛行機を作るために戦争の道具を作らされる矛盾、仕事に専念するために身を固める矛盾など、随所で矛盾が語られています。
 第二の青春に横たわるのは大人の世界観です。第一の青春のようにラノベ的に戯画化できないぶん、欲望が剥き出しになります。少年、青年の頃に求めた「美しいこと」や「正しいこと」を大人の世界観でどのように処理してゆくのかが課題となります。

男のロマン

 大人になってゆく過程で最後に残された美しい感情を「男のロマン」と呼ぶのかもしれません。……ああ、恥ずかしい! これは第一の青春の側からは「卑怯」だと罵られることでしょう。また少年の側からは「ダサい」と馬鹿にされることでしょう。こうした批判に耐える覚悟こそが、その人の「成長」なのかも知れません。
 現実と折り合いをつけながらも、譲れない部分をどこか持っていて、そういう感情が、もしかすると生きる意味というやつなのかも知れません。よく分からないですが。

ヒロインについて

 『風立ちぬ』は、基本的に菜穂子萌えの作品だと感じました。宮崎作品全般にいえることですが、ヒロインに背負わせている使命が大きすぎますね。ナウシカはファンタジーの仮面をかぶっていますが、菜穂子は極めて現実的なキャラクター設定です。
 一般に女子の方が、男子よりも精神的に成熟するのが早いと言われています。正直な話、私も(他の人もそうみたいですが)、精神的に成熟している同年代の女性に引け目を感じたり、嫉妬を感じたりすることがありました。しかし「女性ってそういうものなのだ」と思ってしまえば気は楽です。確かにイメージの押しつけは乱暴なんですけど、向こうも乱暴してくれれば後ろめたさは感じません。
 こうした女子への葛藤は『風立ちぬ』にはありません。上流階級の「お坊ちゃん」と「お嬢さん」どうしの恋愛ですから、互いに精神的に成熟するのが遅いという問題もあるかと思います。菜穂子のもつ負の部分については作品では言及がないため、菜穂子のヒロインとしての「格」の高さに、次郎の身勝手さが目立つのですが、一方で私は二人はお似合いだという印象も持ったので、バランスが取れているのかも知れません。

少年という罪

 作品では、次郎は肯定も否定もされませんでした。「ただ美しいものを作りたいだけ」という言葉は純朴なエンジニアによる、戦争や産業社会への批判に聞こえる一方で、戦争に荷担しておきながら、その責任から目を背ける者の子供じみた言い訳にも聞こえるのです。美しいものは大人の世界観からも、青年の世界観(第一の青春)からも絶えず、批判を受けることになります。
 しかし、少なくとも次郎は美しく描かれていたと思います。もし同じセリフを彼の上司の黒川氏が言ったら似合わないでしょう。けれど、そうは言っても、一見「ダサい」ように見える黒川氏も、黒川氏の味があり、かっこいいと思うのです。無責任な少年を制御しつつ、ロマンを抱けるような美しさを求めたいものです。

市民プールに思う

今日、市民プールに行ってきました。屋内プールと屋外プールがあって、主に屋内で泳いできました。屋内プールのレーンには「ウォーキングコース(主に歩く人)」「ゆったりコース(泳いだり立ち止まったりする人)」「スイスイコース(泳ぐ人)」という区分けの看板があって、私はそれを目印に行動しました。


するとある時、監視員の人が「ゆったりコース」と「スイスイコース」の看板を入れ替えました。”健康管理のための休憩時間”ではなく、普通に皆がプールに入っている時にです。どういう事かと思い、周囲を見回すと「スイスイコース」にいた中学生(?)たちがプールに浸かりながら談笑していて、「ゆったりコース」にいた大人たちが普通に泳いでいました。たぶん監視員は〈実際の〉プールの様子を見た上で、ルール(というより、緩やかな規範?)を変えたのでしょう。

2010ガバナンス論/演習始まる

またガバナンス論の季節がやってきました。元履修生のvanyaです。
このブログ、なぜかまだ閉鎖していません(笑)


「ガバナンス」とはどういう意味か、というストレートな課題が出されているようです。
素直に第一回の講義の復習をせよということなのでしょうか。
一方で1年次の授業で「ガバナンス」というキーワードを見聞きしたというエントリーも見受けられます。例えば八神蒼真さんは「社会システム論?」で学んだと書いていますし、アズさんは「ガバナンスって1年生のときからよく耳にする言葉」と書いています。「きっと情報学部ではかなーり重要なキーワードなんだと思う」のだそうですが、確かに重要なキーワードだと思います。キーワードに溺れずに頑張って欲しいなあと。
「意志決定機関」という言葉がありますが、従来型の意志決定機関による統治(Government)ではなく、関係者が非暴力的な手段で有機的に*1参加する統治がGovernanceなのでしょう。もっとも、私はGovernmentはGovernanceの成果物のひとつであると考えていますが。NPMみたいなものも「ガバナンス」と呼ばれていますが*2、従来型の統治(Government)の行き詰まりを解消するような新しい統治(Governance)を象徴するキーワードとして「ガバナンス」という語が都合良く使われてきた気がしないでもないのですが……。

*1:有機的に……例えば情報が偏っていたり、(ほぼ)一方的なコミュニケーションだったりしないで参加者が意志決定のプロセスに参加することを指します

*2:NPM……岩崎正洋ほか『政策とガバナンス』(東海大学出版会、2003)ではガバナンス論の2つあるアプローチの方法のうち、「国家中心アプローチ」に該当すると位置づけている。一方で市民パワーによって水平的に統治する方を「社会中心アプローチ」と位置づけている。

教科「情報」の英語表記について

高等学校、教科「情報」は一部では「Word / Excelの使い方」と揶揄(?)されていますが、「何について学習する教科なのか」という事がよく分からないまま、新課程に移行しようとしています。新課程の学習指導要領(PDF)が出ましたが、課題と経緯は示されていますが、学習内容と有機的に結びついてはいません。
そこで標題の話になるのですが、情報科を英語表記にするとどのようになるのか。「国語科」ならば"Japanese"です。「理科」は"Science"です。情報学の英語表記である"Informatics"を素直に当てはめればよいのか*1、某社の教科書のように"ICT Education"とすべきか、日本情報科教育学会にならって"Information Studies"とすべきか。*2
少なくとも"ICT Education"は却下すべきだというのが私の考えです。冒頭で述べたように情報科は「Word / Excelの使い方」を教える教科だという、実に的を射た「誤解」でしょう*3。"Informatics"にするか"Information Studies"にするかですが、「教科は学問の(初歩的な)内容を取り扱うものである」という考え方に立脚すれば前者にを支持することになるでしょうし、「教科と学問は(多少)異なるもので、生徒が生きていくのに必要なことを学ぶ課程である」という立場ならば後者を支持することになるでしょう。後者の立場は前者の立場を内包しうるので、"Information Studies"とした方が無難でしょう。このように命名(?)することで情報科は訳の分からない教科であることが浮き彫りになることでしょうけれど。

*1:"Information science"という語を見聞したことがありますが、あまり聞き慣れないです。

*2:英語の先生が英作文指導の際に「『情報』って何て言いますか」と生徒に質問されたらどう答えるのでしょう。"Computer Science"とか(笑)

*3:ICTという語を広義に解釈すれば、あらゆる「情報に関する工夫」をICTと呼べなくもないのですが、通常ICTという場合はコンピュータ技術を前提にしていると私は捉えています

情報学のゆくえ(1)

情報学部というところにいて、自分が学んできたことが他のどの学問でもないことに今更ながら気付かされます。かと言ってそれを情報学と言い切れる自信もありません。
「情報学会」という学会はありません。情報処理学会や社会情報学会ならばありますが。純粋に「情報学会」と名乗っている学会はありません。
「21世紀の知のパラダイム「情報学」の創造」という理念を掲げて探求されてきた(?)「情報学」ですが、未だカギ括弧が取れません。
何を情報化と呼ぶかも不確かで、「物質、エネルギーに次ぐ第3の科学的な対象」なんていうダイナミックなスローガンも色あせているように感じます。
氷のステージに乗った男がホログラムの観客に夢を売っているような漠然とした危うさを感じています。

非ITから「情報」を語る

恭子さんが便乗してくださったので、更に便乗してみましょう。


私の主張は*1Webの中で閉じていたとしても(「長崎」のキーワードと修学旅行を楽しみたいという本人たちの意志以外は)情報検索/情報収集は可能である。しかし、Yahoo!などの検索エンジンが使えることが即ち、情報検索できることと直結はしない。情報検索は単純じゃない。というものでした。*2
今の時代、ITの利用を前提にしないで情報検索を学習しても多分、リアリティに欠くと思います。けれどITが使えれば即ち「情報活用能力」*3が身に付いたと評価するのは少し違うんじゃないかなと、思うわけです。


>ネットリテラシーを越えたメディアリテラシーの育成にも繋がります。
教科「情報」の性質を考えたらメディアリテラシーの育成は重要な課題だと思います。ただし「メディアリテラシー」とは何か、という問いは常に付きまとうはずです。修学旅行の例ですと「修学旅行先(長崎)について学習することによって、修学旅行をより楽しく有意義なものにすることができる」ことが「情報活用能力」だと思います*4。しかし「メディアリテラシー」というともう少し狭い意味な気がします。私ならメディアリテラシー教育の目標は「テクスト(情報源)から必要な情報を選択し、かつ批判的に読み解く(嘘を見抜く)ことができる」としますね。
むしろ私は「ネットリテラシー」という狭い枠組みの中で議論していて、その中でももっと狭く、いわば「検索エンジンリテラシー」の話がしたかったのです。ロボット型検索エンジンが上手に活用できるかどうかは検索キーワードに如何に依存しているかを暴きたかった、それを通して「検索エンジンが使える」≠「情報活用技術としての情報検索ができる」を示したかっただけです。


>どういうわけか「情報=IT(技術)」だという認識が世の中にはあるようです
一般レベルで「情報学とコンピュータ工学は違います」とか「情報だからってITとは限らないんだよ」といった議論が有意味かどうかは不明ですが、コンピュータやインターネット等の枠組みだけで「情報」について議論するのは勿体ないと思います。「どうしてブライユは六点式点字を考案できたか」「なぜ天使ガブリエルはムハンマドコーランを復唱させたか」「新しいアイディアが生まれやすい職場環境は一体どういうものか」これらはIT(電子メディア)の枠組みだけで捉えられるものではありませんよね*5
ただし「俺、IDだし、情報=ITじゃないし、パソコンとか別に勉強しなくていいよね?」といった「逃げ」を促進するだけならこの批判には意味はないと思います。


>情報学部の人間なら「情報ってなんですか?」という問いに対する解答ができなければならないという哲学的課題が暗に課せられています(私の経験上)。
……あ、解答できますかね……? 多分できないです(笑)


>「情報がもてはやされて社会がどうなる?どうあるべき?」
「情報」とは何か、よりもこちらの方が”解答”しやすそうな問題ですね。
話を覆すようですが、IT化の影響は大きいと思いますね。具体的にはインターネット(ブロードバンド)とデータベース技術(とその周辺技術)は大きいかと。コミュニケーションが可視化され、インフォーマルなものの多くがフォーマル(形式をもつような)になりやすい(なることを強制されるような)空間が成立したと思います。あとはcopy&pasteで世界のあちらこちらで実装すればいいわけです。
それが故に、だからこそ、IT化としての情報化の”可能性”を過大評価せず、批判的に評価すべきだと思います。月並みですが。

*1:「地べた系情報収集術」というのをよく知らないですが

*2:別にインターネットの外部に拘っていた訳ではありません

*3:中教審(1997)が体系的な情報教育の実施を行うために提唱した情報教育の目標

*4:「情報A」では「問題解決」と呼ばれる領域に近いですね

*5:意外とCSの人達はまじめにこういったことを考えていたりします。