柔軟性と専門性の葛藤

論点整理第2弾です☆ と言いながら更に混乱させるだけだったりして・・・。

プログラム制における柔軟性の問題に関して,現在主要な議論は(恐らく)2種類あります。
1つめ:モラトリアム的議論
2つめ:つまみ食い主義議論
・・・もっと良い表現はなかったのか! と非難されそうですが。私が今回特に言いたいのは2つめです。ちなみにアンチ ハンペンさんは”転プログラムを容易にするか、他プログラムがどんな感じなのか見られるように取れる授業の幅を広げて欲しい”と述べられています。



1つめの〈モラトリアム的議論〉はフランソワさんから始まった議論です。その背景として,プログラム制の中の1つの制度である転プログラム制は非現実的な制度と考えられていることが挙げられます(少なくともそう考えている人は少なくない)。
けれど具体的な話をすれば,「ガバナンス論」と「A&D」を同時期に受けて最終決定するのも,7月の転プログラム後に3年で履修するのも大して違いが無いように思えるのです。私たちID生が「A&D」を受講すれば,例え「ガバナンス論」とかぶらなくても他の何かを犠牲にしなければなりません。また「ガバナンス論」も「A&D」も両方受講すれば,大変になるのは目に見えています。「二兎追う者は一兎も得ず」,どちらもグダグダになるでしょう。従ってモラトリアムを如何にして捻出するかではなく,モラトリアムを最小限にして如何にして〈プログラム落ちこぼれの悲劇〉や選択時の迷いを減らすかが重要でしょう。恐らくそういう意味もあって〈情報学概論Ⅱ見直し運動〉が進められているのだと思います。アンチ ハンペンさんの言う”転プログラムを容易にする”方策が現実的なやり方であり得るのだとすれば(例えば下で示す技術力の問題と衝突しなければ)〈モラトリアム的議論〉もそのまま議論の余地はあると考えます。



2つめの〈つまみ食い主義議論〉はPrice_lessさんが”選択科目に制限が多すぎるように感じます”と言われたように(私も「経営のしくみ」のことでエントリー書きましたが)各プログラム専用の選択科目が他プログラムに開かれていないという問題点を改正して欲しいという議論です。流石に「論理回路」やら「情報代数及び符号理論」やらをID選択にしてくれと言う人はいないと思いますが,先ほどの「経営のしくみ」は私を含めて何人かの人が疑問に思っています。極論ですが「ハードウェア実験」でも「視聴覚教育メディア論」でも平等に〈範囲外の6単位〉として扱われるわけです。とは言っても,この議論は言い方を悪くすれば〈つまみ食い主義議論〉になります。〈あれもこれも〉です。



ここで引用したいのがみそウーマンさんの〈リベラルアーツ〉の考え方です。いやはや,高度な考え方だったので初めて読んだときはピンと来ませんでしたが,徐々にその重要性に気づいてきた次第です。
つまり「〈あれもこれも〉じゃあ,ちゃんとした技術が身に付かないんじゃない?」っていうお話なんですね。さくさんも少し触れていましたが,〈あれもこれも〉では「IDプログラムでは○○が身に付きます,○○という社会貢献ができます」という明確なゴールが見えてきにくいという問題があるんです。多くの人が「IDはISと比べて就職に不利だ(と聞いたことがある)」みたいなことを言っていましたが,本当のところは「どういう仕事をするのか明確なビジョンがないので,何だか不安」っていう気持ちが「就職に不利」という判断に至らしめたのかも知れません。だとしたらゴールがあるといいですね,ID版JABEEみたいな。
しかし専門性を高めるカリキュラムにも問題点はあります。確か昨年度に学生討論会(だったか・・・)みたいな行事があって,その答申に「CSは文系の講義が取りにくい,文工融合を謳ってる割に窮屈だ」「技術者プログラムがあるから厳しい」みたいなやりとりがあって(記憶が定かではないのでこの情報は信用できません),要するに言いたいのは,あまり技術力(○○が身に付くということ)を重要視してしまうと折角の〈文工融合〉が台無しになってしまうということなんです。情報学部は〈コース制〉ではなく〈プログラム制〉なんですね。技術力重視なら〈コース制〉で十分だと・・・。あぁ,書いていて「〈プログラム制〉って何なんだよ」・・・って叫びたくなりました。


柔軟性(文工融合の特性を活かす)と専門性(確かな技術を身につける)の調和が難しいですね。この論点は「T型人間・Π型人間とは情報学部的にどういう人間で,そのための制度やカリキュラムはどうあるべきか」というふうにも置き換えられるのではないでしょうか?