祭られるブロガー、冒涜されるブロガー

「ブログと言論の自由」というテーマが与えられ、またしてもはてなダイヤリーユーザ泣かせな長〜いテーマ名なので自由にカテゴリ名を縮めます。

“参戦”してくださいと言われたので“参戦”します。
前回の演習で感じたことは「ブログするのには余裕が必要」ってことです。そして祭りに対しては否定的です。
〈祭り〉についてです。そもそも何で〈祭り〉って言うのでしょう。確か祭りって元は政(マツリゴト)と起源が一緒なんですよね。
そもそも祭りのメタファーとしてのブログ上の〈祭り〉を語る際に、「祭られる」と表現した場合、本来の意味で捉えれば「神として崇められる」とい意味になり、とても光栄なことと解釈できます。しかし実際の用法では、ネット上の〈荒ぶる神〉を鎮めるために諫言し奉る〈神聖な行為〉の対象(あくまで受動)となることを意味します。
祭りには誰だか分からない人も大勢寄ってきます。村人じゃない人が大声をあげて騒ぎます。〈荒ぶる神〉に迷惑を被っている訳でもないし、その村の神を信仰している訳でもない。また村の事情もよく理解していないんですね。
村人は自分の村のことだから、何とか〈荒ぶる神〉を鎮めようとする。しかし事情を知らない部外者はちゃんとした宗教的手続を踏まずに神を冒涜してしまう可能性もあります。要は信仰のレベルが違うんです。
日常的には恵みをもたらす神は村人にとって信仰の対象です。その日常の関係が崩壊するところに非日常、つまり祭りが生じます。
ブロガーになる(神になる)時点で、閲覧者は勝手にブロガーを信じます(信仰)。その信頼は「人としての最低限のマナー」という軽めの信頼であったり「○○さんならこんな発言は絶対しない」という重めの信頼であったりします。閲覧者はブロガーに神であって欲しいから祭るのです。
部外者による冒涜に対しては無視を決め込まなければ神の権威の失墜につながりますし、村人による祭りに対してきちんとした対応をとらなければそれもまた神の権威の失墜につながります。大事なのはブロガーが「私は私」とするか「村人あっての私」とするかです。どこまでを村人とするのか、線引きが難しいところですが。「人としての最低限のマナー」という軽めの信頼を裏切る神を、かなり多くの村人が祭るのは理解できます。
ですが閲覧者にとって対話相手は1人ですが、ブロガーにとっては多数で、とても祭りに耐えられるものではありません。ブロガーは本当の意味で神ではないのです。
ブロガーが神を放棄すると閲覧者の感情を置き去りにします。原則ネット上に身体的な制裁の発動はありません。基本は信頼関係です。けれどネット上で生まれた感情がネット上で消化されなかったとき、場合によって現実世界にその感情を原因とする結果が及びます。
でも神を放棄する以前にブロガーは神ではないのです。神ではない人を祭ることは果たしてできるでしょうか? 非日常の中の〈祭り〉と日常の中の批判は似て非なるものだと考えています。
ところが実際に〈祭り〉は存在します。神になるのは大変です。だから余裕がないと出来ないと思いました。