ダブル・スタンダードは知行未合一

〈祭り〉の話でダブル・スタンダードの問題が盛んなようなので、チョット考えて見ます。ちなみにダブル・スタンダードは良くない、と思いながらも自分もうっかりやってしまいそうで、かなり恐ろしいです。


王陽明(1472-1528)は、「知行合一」と言いました。「○○すべき」という認識と「○○する」という実践は本来1つのものだと。○○できないのに「○○すべき」と言うのは偽論。故にダブル・スタンダードは良くないぞという認識に至るのです。

「ブログと言論の自由」というテーマで自由を語るとき、法的な意味での自由を議論の対象にすると議論に限界が生じます。法律では法律で認められている範囲内で言論の自由を認めています。言いたいことを言うだけがブログならコメントなんか気にせずに好きなことを好きなだけ書けばいい訳です。でもそれって、公開する意味がないんですよね。公開するってことはどこかで他者と繋がりたいという願望があります。繋がるってことは自由が1つ奪われることでもあります。(比喩ですが)有線ケーブルはもちろん、無線でも電波が届く範囲にいなければ繋がることができないのですから。絆という言葉はほだしという意味です。繋がるコミュニティーでは、法律を超えた規範を考える必要があります。

ダブル・スタンダードは正義の感覚と現実把握の失調アンバランスから生じるものだと考えます。王陽明は真の知は必ず実行を伴うと言いました。真の知(良知)は正義の感覚とどう違うのでしょうか。私は正義の感覚はノリで、真の知は〈認識〉だと思います。
ブログで祭る人たちはノリを共有しているものと考えることができます。だとすれば祭りに「知行合一」は存在しません(すべてとは言いませんが)。ブログをノリで繋がるツールとして捉えるか、〈認識〉で繋がるツールとして捉えるか。

私は「知行合一」がガバナンスを目指す倫理の1つのキーワードになるのではないかと思います。王陽明の批判した朱子(1130-1200)の考え方は日本に於いても権力者たちに利用されてきました。社会正義は単一のイデオロギーが示すものではなく、「私はこう考える」のぶつかり合いでしょう。「私はこう考える」の〈私〉が自分が実践できない理想論で現実を非難すれば、ガバナンスの主体たる〈私〉が揺らぎます。

ブログ上の言論が「知行合一」の規範に基づいたものならば、ある程度は受け手にリアルな感覚を与えるのではないでしょうか。言論はそれ自体バーチャルです。送り手と受け手が共犯関係を結んでバーチャルを楽しむ戯れもあります。そういう繋がり方もアリだと思います。ですが、人は本当にそれで満足できるのでしょうか・・・。

時間軸のずれたダブル・スタンダードは許せます。この世界にはどちらも正義という感覚が存在します。ネズミ小僧は悪人ですか? 貧しい家に銭を投げ込めば「よくやった」と言われ、でも盗みは悪いことだから「とんでもねぇ野郎だ」とも言われます。「正義か悪か」の2項対立では語れない問題もあって、スタンダードが揺らぎます。こういう場合、昨日と今日で〈改宗〉もあり得るでしょう。ここには成長というリアリティがあります。

私自身、「『知行合一』は良い」と良いながら、それが実践できているか微妙です。じゃあこの言論自体がバーチャルな戯れ? 多分そうでしょう。でも欺こうとか、そういう悪意はないつもりです。「こうだったらいいな」「理想を現実に近づけよう」っていう意識はリアルです。もしかしたらノリから何か学べるものがあるのかも知れないです。祭りが標榜する正義がバーチャルだとしても、祭りに参加すること自体はリアルなのですから。

以上、「ダブル・スタンダードは良くないと言いながら自分のことは棚に上げる」というダブル・スタンダードの可能性への自問自答でした。とりとめなくてすみません。