〈個人〉から世界へ

パブリック・ジャーナリズムの特徴は、発信者が〈個人〉(または数人?)である点です。
JANJANより半木栄太郎氏による「孫たちと京都府立植物園を散歩」を見ると、記事の中に主観による感想が随所に散りばめられています。例えば毎日新聞のニュースでは”同会の竹尾敬三事務局長(51)は「(ハナショウブの筏を浮かべることで)住民が水路に関心を持ち、ごみも少なくなった。昔のように水遊びや洗い物が出来る程ではないが、付近では蛍もちらほら見られるぐらい環境が良くなってきている」と話している”などのように、状況を伝えるにしても人の言葉を借りるなどして客観的な視点で記事を書いています(ここもそうですね)。
従来のメディアにも読者投稿のページがあります。ですがこれは主にメディア側が発信したネタをソースにして意見を述べるというものです。市民自身がソースを提供する訳ではありません。
先ほどの記事で言えば、公開した写真自体がジャーナルであるという見方ができます。写真を募集して掲載する活動は従来のメディア(新聞など)でも行われていますが、そこに個人の感じたことが注ぎ込まれているのが新鮮です。
またJANJANには読者からのコメントが掲載されるシステムを採用しています。これは読者もまたパブリック・ジャーナリズムに参加する主体になり得るということです。
従来のメディアの場合、送り手が〈会社〉であったのに対して、パブリック・ジャーナリズムの送り手は〈個人〉になります。興味深かったのはトーキョーワッショイより、まきこ氏の「スープカレー」。コメント欄を見れば〈個人〉を意識していることがよく分かります。コメントした人は何回かまきこ氏の記事を読んでいたようでした。記事それ自体の客観性を当てにして読むのではなく、1人の記者(の記事の集合)として記事を読むという読者の態度が読み取られます。