ガバナンスと私―パネルディスカッションに向けての覚書

7月になり、「ガバナンス論」もそろそろ終わりです。最終試験(評価の55%)を間近に控え、知識の整理をしなければいけません。果たして整理されるかどうか。
統治ガバメントとの比較の中での協治ガバナンス
佐藤先生のウィンター・サバイバルの回にて、グループでよってリーダーの有無に違いがありました。佐藤先生の言う〈コンセンサス型〉はガバナンスのモデルです。「話を纏める人」「マッピングする人」「意見を言う人」に制限がありません。本多先生の「コミュニケーション論Ⅰ」では〈役割の自由な交代〉という要素をガバナンスの特徴として挙げていました。そこで興味深いのは吉田先生の演習です。
吉田先生の演習では司会・書記・発表者という固定的な役割がありました。その役割は(一応)ガバナンスによって決めました。しかし一度役割を決めてしまえばもう覆すことができない前提だったのです。つまり本多先生の〈ガバナンス論〉には反していたのです。
ウィンター・サバイバルでも、言われなくてもに役割を予め決めてしまった班があったかもしれません(少なくとも赤尾先生のグループディスカッションの回では発表者以外の固定的な役割は求められていなかったにもかかわらず、自分の所属する班では吉田先生のセミナーと同じやり方を採用してしまった)。ウィルキンソン先生の「コミュニケーション論Ⅰ」では”Organization learn(組織は学習する)”という考え方が示され、2回目のバランス・ビーム実験の成功は上手い具合に比喩になっていると思います。1回目は何をやって良いのかよく分からずかなり風船が破裂しましたが、2回目は難なく成功しました。これは良い結果が現れた例ですが、「役割を決める」という固定観念に縛られる、負の側面もこのモデルから導き出せるのです。PeterSengeの〈メンタル・モデル〉(TheFifthDiscipline)と言うことができます。広い意味では高木先生の「社会システム論Ⅰ」にある〈規範〉にも当てはまります。
ところが組織が巨大になったとき〈役割の自由な交代〉が現実的ではなくなります。吉田先生の講義でもありましたし、多くの人が指摘しているようにガバナンスには時間が掛かります。組織が複雑になればなるほど、コミュニケーションが困難になり、全体が見えにくくなり、更にもっともっと時間が掛かります。また重要な問題であればあるほど自主性(ボランティア)の喪失は傷手となります。その際、何らかの強制力(権力)が必要になるという論理が生まれてきます。
根源的な意味で権力のガバナンス的創造を〈社会契約〉と呼ぶのではないでしょうか。これがいわゆる民主主義であり、ガバメントだと。民主主義の倫理から考えるならばガバナンスはガバメントを包含していると考えることはできないでしょうか。授業では敢えてガバメントではないガバナンスを扱ったに過ぎない気がします。
ガバナンスに立ち返ることは大切です。〈メンタル・モデル〉にしろ、〈規範〉にしろ、権力に対して無自覚になることはしばしばあります。”そもそも国政は……その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する”みたいな観念が(いや概念と言った方がいいかも)情報化などの影響で揺らぎ、近代社会の原則を(謳歌するとまでは言いませんが)確認する必要はあるのだと思います。
パブリックという用語がでてきます
なぜ〈公共〉と言わないかといえば、日本語の問題で〈公〉とは天皇陛下(→政府)のことであり、〈公共〉とは「お上に従う」ことだからです。ですからパブリックという概念はなかなか根付かないわけです。
先ほど情報化の話を挙げましたが、他にグローバリゼーションの影響もあると思います。例えばコンビニは全国どこへ行っても同様のサービスが受けられます。しかも店員のことは知らなくても問題ないのです。だから誰が行っても構わないし何を買っても構わない。これってパブリックですよね。マス・メディアもパブリックです。情報化もパブリックですね。
公共パブリックってガバナンスにもガバメントにもなるんですね。グローバリゼーションの産物…自販機にはいつも同じドリンクしか入っていません。生協の自販機にオリジナル商品が入っていてチョットほっとします。個々の地域での自販機利用者の要求に即しているとは言い難い状況です。これはトップダウンですか。少なくともグローバルな範囲では消費者のニーズは汲み取っているのでしょう。
特に企業の意思決定の場合、マイノリティの意思を結果として政策に盛り込むことは難しいことです。ガバナンスはマイノリティを支援するための理想的な制度ではありません。しかし、マイノリティを支援しようとしている人やマイノリティの意見を全体に広める手段として情報技術は注目すべき点があり、ガバナンスはそういった取り組みを支える概念として捉えることができるのではないでしょうか。
地ベタリアンとメディア、当事者意識の担保
地ベタリアン(公共意識の薄い人)がメディア(公共の場)で発言をすることに抵抗はない訳でもないです(「オマエモナー」などと言われそうですが)。リアルな世界では「駅前で歌を歌って警察に…」ってことはあり得ますがバーチャルな世界では野放しです(決定的な権力が薄い)。ネット上のフレーミング(やブログの炎上)の問題が授業で扱われましたが書き込みを見ない人にとっては無意味です。けれどそれは不参加と同義です。フレーミングはモラルの問題だから倫理教育をしっかりすべきといった議論がありますが、(もちろんそれも大事ですが)私の立場では、倫理というものは人がコミュニケーションの過程で傷つけ傷つけられ、身につけてゆく身体的な規範だと思うのです。
パブリックと身の回りとの溝を感じるとき、社会参加への勇気が萎縮してしまいます。ガバナンスを目指すためにはパブリックなものへの問題意識というか当事者意識を確認し合う地味な作業が必要なように思います。
したがって、コミュニケーション能力が鍵になるでしょう。教育の話としては倫理を身につけさせることよりもずっと楽なはずです。自分から手を挙げるには勇気が要ります。その勇気もある種の自己システムなのかも知れません。よく「自己PR」って言いますがPRはPublicRelationつまり公共と関わることなんですね。自我は人と関わらないと見えてきませんし、心の深層では人との関わりを求めているはずです。井川先生の「コミュニケーション論Ⅰ」です。
市民の権力を預かる者の使命
制度的な話でもありますが、佐藤先生の「ガバナンス論」に〈ポリアーキー〉という概念がでてきました。私の理解度に自信がないのですが、あれがガバナンス的にガバメントを規制する概念ではないでしょうか。
直接民主制ではなく
ガバナンスと直接民主制の違いについて指摘します。まず制度かそうでないかという根本的な違いはありますが…。実はガバナンスって匿名が許されるんですよね。パブリック・コメントみたいに匿名でも問題ないもの(政策形成過程)には匿名が採用できます。グッド・ガバナンスの8要素で言えば少なくとも〈透明性〉〈実行〉〈効果?〉は保障されないでしょう。HamaZoのフォーラムで納得させられたのですが、〈顔の見える関係〉って〈実行〉の鍵な気がしますね。
パブリックだけどグローバリズムとは違う、コミュニティ・レストランがブログを始め、その結果として店に客が入るようになったという中野さんの報告は興味深かったです。そういう場は重要だと思います。SNSが〈顔の見える関係〉なのは単にシステムがそうなっているだけです。あれは〈mixi八分〉といった問題もあるので、パブリックじゃない閉じたガバナンスしかできないと思うんです。グッド・ガバナンスの8要素にはなかったですが〈公開性〉って重要だと思うんです。一方で企業の側では戦略的に情報を占有する(閉鎖する)必要性もでてきます。今の私のレベルでは情報資源の分配とガバナンスについて論じることはできません。
関心のある人がガバナンスの主役になるという話は結構前から出てきています。〈実行〉が確保されるだけの人数が集まる必要はあります。例えば〈ナショナル・トラスト運動〉をするにも人数が集まらないと意味がないです。ただ権力者でないにしろ実行者は利害関係者に対して説明責任はあります。高木先生の「社会システム論Ⅰ」で言うところの〈熱心派〉が無関心層に対して権力を持つのです。
無自覚的な権力の行使がやがて階級を生み、階級間のコミュニケーションを困難にします(これも「社会システム論Ⅰ」)。これは〈特権階級〉にとっても悲劇です。そんな悲劇を生まないための知恵をガバナンスと呼べないでしょうか。
トップの人はいかにボトムの意見を汲み上げるか、ガバナンス的な課題でしょう。藤井先生の「社会システム論Ⅰ」ではQCサークルを挙げていました。直接民主制よりはるかに柔軟です。
ポストモダニズムとガバナンス
分からないテーマです。
佐藤先生は「君たちは自由だ」と言います。これまでの授業でも「ガバナンスは民主主義を補完する」といった論点で、民主主義を前提にしています。本当に人は規範から自由になれるか、本当に民主主義は幸福を達成できるか、判断できかねます。ガバナンスというのは非常に近代的な思想に裏打ちされていることが分かりましたが、近代が否定されたところにガバナンスの価値はあるのでしょうか。自分が近代を受け入れられるのは近代の虚偽意識〈イデオロギー〉に支配されているからではないかと疑いを持ってしまいます。ああ、頭が痛い。これ以上はやめておきます。


もうかなり長く書いたので終わりにします。次回のパネルディスカッションを楽しみにしています。