演習:大学祭とガバナンス

大学祭はガバナンス論の観点からすると、様々な問題を孕んでいます。
今回はその中で「模擬店の学外団体参入を認めるべきか否か」についての議論でした。
先生方のコメントは概ね予想通りでしたが、ディスカッションは想像よりも活発だったので、提題者ながらびっくりしました。


「大学祭は談合である」
談合がよくないのは、一般の感覚からすれば「私たちの税金で賄われている公共事業を勝手にコントロールされている」からです。大きな企業は市場原理で競争させればいいですが、小さな企業だと、「談合ができない」せいで従業員やその家族が路頭に迷うことだって考えられます。「経営努力が足らないのだ」と切って捨てることは簡単です。でも社会的に談合は悪ですよね。
今回の演習のカラクリは、ディスカッション参加者がグッド・ガバナンスの基本理念を押さえた上で、談合しないと食っていけない立場を自覚されることでした。


サービスの向上
佐藤先生の指摘するように、大学祭は大祭委員に決定権が集中するガバメントの問題という側面があります(それはそれで別の重要な議論になります)。学外団体の参入で学生模擬店が刺激されて大学祭のクオリティが向上することで来場者も増加する、といった議論は想定していたのですが。「そもそも参加したいなんて言ってくる学外団体なんているの?」という議論もありました。(模擬店だけでなく)大学祭全体のクオリティが高くないと、商売目的の参加団体にとっても そもそも魅力的な場ではないでしょう。プレゼンでは「大祭委員はコーディネーター」と言っていましたが、デザイナーと言えそうです。区画割りをどうするかとか。クオリティが高いと大祭は面白くなりますが、一方で維持が困難になりますね(こりゃガバメントの問題ですね)。


プレゼン以外にも判断材料がある
演習開始時のプレゼンで、対立構造を明確にするために「学外≒プロ」しか殆ど紹介しなかったけれど、プロとはパラディグマティックな関係に想定される主体もあるわけで、「近所の主婦が」とか言っていたグループいましたが、「あぁ、ちゃんと考えている」などと思った次第です。自分が演習をしていた時に比べると大したものだなぁと。
今回は割と身近なテーマだったので、大祭委員視点とか参加団体視点とか色々な立場から新たな情報が出て議論が弾んだと思います。演習中ネットに繋ぐこともできるので、他大学の大学祭はどうなっているか調べることもできたかも知れないですね。


「地域にひらかれる」ことの意味
なぜ地域に開かれなければならないのかって説明するのが難しいですね。
「私たち」という表現があります。今回も「私たちが学外団体を入れて云々…」と言いう意見がありましたが、「私たち」とは何でしょうか。これは重要な問題です。
「私たち」と言ってしまうことで、既に合意ができてしまっているかのような錯覚に陥りがちだと思うのです。「私たち」に含まれている人の合意はできていたとしても、「私たち」に含まれるべきだった人の合意はされていないからです。無理矢理グッド・ガバナンスに引きつけて考えると「包含」の問題と言えるかも知れません。
「大学祭は大学生の祭りだから、大学生とその他とで待遇が違っていても構わない」という考えは、大学祭を楽しみにしている地域の人に失礼です。あまりいい例えではありませんが、比較的パブリックな掲示板の管理人が無闇やたらと書き込み削除を行ったら、その管理人は非難されます。私的なはずのものが公的な性格を帯びることだってあるのでは?という話です。
大学祭(及びテクノフェスタ)は地域の人に「うちの大学・大学生はこんなことやってますよ」ということをアピールする場という側面があります。もし大学祭がないと「近所に大学があるけど、何やってるのかね。不透明だけどね。不気味だね。そういえば学生が夜な夜なウロウロしてるけどね、犯罪かね」みたいな溝が生まれてしまいます(大袈裟かも)。地震が起きたら助け合わないといけないですし。
どうせ学外から参加団体を募集しても来ないよという意見もありますが、オープンな姿勢を見せること自体が意味を持つことだってあるはずです。それから学外=地域とも限らないですね。島根の中小企業が応募してくることだって……。


祭の意味
模擬店参加団体全てが営利を追求してる訳ではありません(ただ赤字はイヤですけど)。寧ろ大学祭を楽しもうというスタンスで参加している団体が殆どだと思うのです。交流というか、ふれあい?
祭といっても色々あって、carnivalもあるしfestivalもあるしmassもあります。大学祭は恐らくfestivalに該当すると思うのです。感謝祭って「収穫を祝う」っていう意味合いがあって、村人がみんなで「これからも生きていけること」を確認し合い、喜びを分かち合うものです。
「村人以外は参加するな」などという規則は特にないけれど、何となく村人以外は参加しない。村人の範囲が緩く広がっていくと、その境界が見えにくくなってしまいます。
喜びは大学内でしか分かち合うことはできない? 地域の人と喜びを分かち合えるのでは? 精神的な閉鎖性は村の規模をどう捉えるかだと思います。大学は誰のものかってかなり難しいです。


閉鎖性を超えて
大学自治を考える上で、1つの論点となるのは「大学の持つパブリックな役割を意識しなければならない」という点です。大学の中にずっといると大学の外には目を向けにくいのです
と言うか、この議論自体も閉鎖的で、別に模擬店だけが参加の手だてではないですから。赤尾先生のエントリーで最後に問いかけられたことへの1つの解かと思います(陳腐ですが)。