Remember Three-Ten(スリー・テンを忘れない)

ヨシダ先生のブログより。


今年も、スリー・テンゲームを行ったみたいです。
「リアリティ」というキーワードに着目してエントリを書きます。


「生存をめぐるガバナンス」と表現するのと「スリー・テンゲーム」と表現するのでは大きく違います。ゲームと表現した時点で現実とは切り離されたもののように感じてしまうからです。
スリー・テンゲームは何を目的とするか、プレーヤをどう描くかでゲームの結果が変わってしまいます。プレーヤ情報には不十分な形容しか与えられておらず、リアルな意思決定が不可能です。そこで不十分な情報からくる個人的なイメージに基づく価値判断で補う必要があります。
もしこれが「生存をめぐるガバナンス」というフレームワークなら、決めつけに強い抵抗を覚えたかも知れません。


ところでスリー・テンゲーム、藤子・F・不二雄の『カンビュセスの籤』を想起させます。ペルシャ軍がエジプト遠征の際に敗北を喫し、食糧も尽きたために兵士の半分が食糧となってペルシャ軍が生き存えたと言われる故事をもとに創作されたSF漫画です。
10人の絆の深さにもよりますが、本当に生死がかかっている時に「意思決定」だの「合意形成」だのが成り立つとは考えにくいですね。我先に生存を願うか、絶望して命を絶つか、とにかく無秩序な状態に陥るでしょう。超越的プレーヤの決定は勿論のこと、くじ引きも成り立つかどうか危ういです。


生死とまではいかないにせよ、リアリティのない「書類」だけで、重大な意思決定問題を突きつけられたとき、本当にガバナンス的に思考ができるのでしょうか。
くじ引きを提案したペルシャ王カンビュセス2世は、なるほどガバナンス的であったかもしれません。しかしカンビュセス自身が王であり超越的な視点に立っていたことも事実です。王が肉になる身であったなら、グッド・ガバナンスな判断ができたでしょうか。


背後のリアリティを無視して機械的に判断することは危険ですが、(いわゆる)ガバナンスを絶対善と見なしてガバナンスならばOKと判断するのも危険です。
スリー・テンゲームは超越的視点に立つことが前提となっているので、リアリティはなく、リアリティがあると言ってもそれは独善的である可能性があります。
ガバナンスの実践で「第三者」という超越的な視点と似た視点に立たされることがあり、その際に「適切な」判断を下すことの困難さをこの演習は物語っています。


「医者は大事だな、病気直すし」みたいな低次元(低レベルではなく)な議論を1年前の私(たち)はしていた訳ですが、これからもずっと「スリー・テン」を忘れてはならないのです。