異文化「理解」という言葉について

大学4年になってやっと異文化理解*1に関心が持てたのですが。
「理解」という言葉を巡って、問題意識を持ったので記述しておきます。


簡単に言うと、原理主義を理解できるかという事なのです。
例えば自分自身が「納豆は醤油で食べる」という文化を持っているとして、「納豆はコンデンスミルクで食べる」という文化をもった人と出会います。普段通り納豆に醤油を入れたものを彼(彼女)に提供したところ、「何故醤油を入れたんだ!」と怒られます。これが文化摩擦です。
「ふざけるな、納豆には醤油を入れるのが当たり前だろ。コンデンスミルクを入れるなんて日本人じゃねぇ」などと言って相手の文化を否定(拒絶)した場合、両者の関係は良好にはなりません。そこで「君はコンデンスミルクを入れる人なんだね。じゃあ次からはそうするよ」と言うことで文化摩擦が回避できます。
しかしこれでは「納豆は醤油で食べるものだ」という従来の自分が持っていた価値観を変えなくてはなりません。更にもし相手が「コンデンスミルクで食べるのが最も美味いから、コンデンスミルク以外の方法で食べるのは邪道である」という価値観を持っていたとすれば、納豆を醤油で食べる「私」のことが許せなくなるはずで、この場合、納豆を醤油で食べる事自体が相手を理解し切れていないと言えるのではないかと思うのです。


異文化了解、或いは異文化承認という言葉の方が適切なのかも知れません。
寧ろ異文化「理解」などという言い方は傲慢でしょう。
それはそうと、Wikipediaの「文化摩擦」の項には驚きました。例文にオウム真理教を持ち出した筆者のメンタリティは「理解」できません。……そう考えるとある程度の理解(何故○○という行動をとるのかという理屈)は必要なのかも知れませんね。

*1:異文化理解というと、国際関係やら他民族の文化をイメージしがちかも知れないが、もう少し広い意味で捉えている。日本国内の「地域間」「男女間」「世代間」等の理解も異文化理解に含まれるだろう。