後輩に話して妙に感心されたこと

エースさんのエントリーにコメントして思い出したのですが,結構前に後輩に話して妙に感心されたことがあります。


私が中学生の時です。学校の先生が帰りの会なんかで説教を垂れるんです「勉強しないと大変なことになるぞ」って。そうするとそれを聞いた生徒は「そうだな,勉強しなきゃ」ってその時は思うんですよ。でも大概は家に帰っても勉強しないんですよね。
高校入試あるし,親に金払ってもらってるし,云々・・・。「勉強しなきゃいけない」って頭では分かってるんですね。でも実行できないでいる。「勉強しなさい」って言われて「今やろうと思ったのに・・・」って。それで余計にやる気がなくなってしまう。それにテレビが点いているとついついテレビを見てしまう。やるつもりはあるのに実際にはできていないんです。それはどうしてなんだろうって自分に問いかけました,多分中2くらいから。
高2になって悟りました。まずが分かっていても意味がないってことなんですね。身体が分かっていないと意味がない。別に神秘体験とかじゃないです。机に向かうのも,ノートを開くのも,問題を読むのも,答えを書くのも全部,身体がやっていることなんです。勉強は頭でするものじゃなかったんです。頭で分かっていても何もすることができないです。何も成果が残りません。誰も認めてくれません。頭の中だけに残ってそのまま死んでいくだけです。
じゃあ具体的に何をするか。簡単,呪文を唱えるんです(くどいようですが神秘主義ではありません)。最も簡単な呪文は「テレビ消灯!」です。するとたちまち「私の利き腕が伸びてリモコンを掴みテレビに向けて電源OFFボタンを押してしまう」(これも呪文の一部です)。ポイントはその通りに自分の身体を動かそうと念じることです。ただし声に出さないと効き目がありません。例え家族に聞かれるのが恥ずかしくても声に出さないといけません。
テレビって意外と情報量が多いんです。その情報を処理するために脳の大部分が使われてしまうんですよ。すると「勉強しなきゃ」っていう理性の部分に脳のメモリ容量がまわらない訳です。身体を支配する権力を持っているのが理性で,TV視聴は理性の権力を弱めるはたらきを持っているとも言えます。呪文を唱えるという行為は僅かな理性をを振り絞って,せめて口だけは支配しようという試みなのです。呪文を唱える(声に出す)ことで,TVの情報処理が一時的に遮断されます。そして口を動かすことで身体を動かすきっかけを与えます。そうすれば通常よりも少ない根性でTVの呪縛から逃れられます。TVが消えれば理性が回復します。
しかし,理性には惰性という敵が潜んでいます。だからすかさず「鞄から教科書を取り出し,机に向かえ。机に向かったら,ノートを開け。鉛筆はあるか。下敷きはあるか。準備が整ったら椅子に座れ」みたいなことを具体的に言っていきます。しかも声を出して。声を出さないと,脳はまた変な思考をし始めてしまうからです。
余談ながら,理性のメモリ容量を増やす方法は,規則正しい生活をすること(最近できてないなぁ),栄養を偏らせないこと,睡眠を取ること,朝ご飯を食べることなどです。
とにかく,声に出すことが重要です。なぜ挨拶が重要かってことにも繋がるんですよね。挨拶っていうのはコミュニケーションの姿勢だと思うんです。声に出すことで相手への関心が始まる,と自分の姿勢を形作るんです。また相手への意思表示にもなります。〈頭の中〉が人に伝わる第一歩なんです。〈親への感謝〉も普段のコミュニケーションの中から培われてくるものかと思います。
よく学校の先生が「規則正しい生活をしろ」だとか「挨拶は大事だ」なんて言うのはそういう意味があってのことだったんだなと,高2の私は思いました。それが実は(エースさんのところでの話題に戻りますが)学力向上の近道なんじゃないかなと思ったりします。
でも規則正しい生活とか挨拶とか家の手伝いとか,簡単そうに見えて意外と難しいですよね,極めようとすれば。結構奥が深いです。例えば「ありがとう」のタイミングを逸するとか。そういうことがナチュラルにできている人を見ると「すごいなぁ」と感心します。・・・という話を後輩にしたら感心されたんですけどね。私はまだまだ修行の身です。