私的オルタナティブ・ジャーナリズム本質論

最近、色々な授業が相互に関連してきて大変当惑しております(境界線が曖昧)。主たる元凶は「ガバナンス論&演習」と「メディアスタディーズ&演習」なのですが・・・。教員の「伝えたいことがたくさんあるのに伝えきれない感」がひしひしと伝わってくるのです。ということで今回は私の「きちんとした形で纏めたいのに纏められない感」をうまく纏められないなりにうまく伝えようという試みです。


オルタナティブ・ジャーナリズムの基盤はあるのか”と言われれば、そうかも知れないと思ってしまうけれど、そもそも基盤がある・ないで語るべき問題ではない気がするかなというのが私の現在の意見です。ものすごく根本的な問いで面白かったので、みそウーマンさんのエントリーに冒険的なコメントをしようと思います。今回はそういうエントリーです。
みそウーマンさんは、藤原正彦さんの『国家の品格』(新潮新書)を読んでジャーナリズムに一般民間人が参加するのは困難であると考えたようです。そして”私自身は共感できるところがあります”と言及しています。私は『国家の品格』を読んでいないので総合的に判断できませんが、みそウーマンさんの引用箇所については、全く共感できませんでした、残念ながら。


もちろん真のエリートたちが時代が変わっても俗世に拘泥しない教養人なら問題ありません。一時代の話は単なるエピソードとして片付けることができます。しかし、冷徹なる事実を言ってしまうと、こんな人がいたら奇跡です。
エリートによる政治を許してはいけない。放っておくと、民衆が知らないところで戦争を起こす。国を潰し、ことによったら地球まで潰してしまう。


仮に奇跡が起こったとして、その人が死んだらまともな後継者が現れるでしょうか。藤原さんの文で言えば、旧制一高の寮歌の精神がそのままエリートの倫理として恒常的に根付いているでしょうか。寓話にすれば、「東大卒のミラクルな人格者、山田太郎さんが日本を動かすために相応しい社会制度を整備することが望ましい」と。 ・・・言葉遊びはこの辺にしておきます。


オルタナティブ・ジャーナリズム(以下AJ)には〈理想〉的なAJとAJを目指した〈動き〉があると思うんです。みそウーマンさんの言う”真のエリート”とは区別して、「教養も倫理も不十分だけど民主主義を取り戻したい、自分たちなりに世の中(町や村であっても)について考えたい」などと考えている人を〈醒めた市民〉と呼ぶことにします。ポイントは教養も倫理も不十分という点です。彼らのジャーナルは〈理想〉的なAJとは呼べませんが、AJを目指した〈動き〉として〈理想〉に近づくエネルギーがあるとしたらどうでしょうか。
つまり”オルタナティブ・ジャーナリズムの基盤はあるのか”ではなく、AJの基盤は永遠に〈作っていくもの〉、そしてAJistどうしの(あるいは読者・編集者との)相互作用の中で発展していくものではないでしょうか。固定した〈理想〉として捉えるのではなく、いい方にも悪い方にも変動しうる〈動き〉として捉えるのです。勿論、ダメなジャーナルも量産されるでしょうが・・・。
・・・ちなみに、赤尾先生がAJを肯定的に説明しているのに「違うんじゃない」と正直に表明するみそウーマンさんの態度は大好きです。