教科「情報」学習指導要領改訂について

新しい学習指導要領「生きる力」
久しぶりのエントリが旬じゃないvanyaです。
意見というより旧学習指導要領との比較のまとめみたいなものです。
パブリック・コメントに間に合いませんでしたが、折角纏めたので後悔公開します。



概要

 高等学校(中等教育学校後期課程、特別支援学校高等部)の普通教科「情報」(以下、教科「情報」)の学習指導要領が初めて改訂される。前回と同様に必履修の教科とされ、科目構成は「社会と情報」「情報の科学」の2科目(いずれも2単位)のうち高等学校入学生の活用経験、興味・関心の多様性を考慮して、生徒の実態に応じて*1 1科目以上を選択する。旧学習指導要領の「情報C」「情報B」にそれぞれ対応している。「情報A」は削除された形となったが、元々、「情報A」は「移行措置」のための科目とされていたようだった。

目標

(1) 情報及び情報技術を活用するための知識と技術を習得
(2) 情報に関する科学的な見方や考え方を養う
(3) 社会の中で情報及び情報技術が果たしている役割や影響を理解
(4) 社会の情報化の進展に主体的に対応できる能力と態度
 旧学習指導要領では(1)は「知識と技能の習得を通して」と記載されており、(1)は(2)以降に対して従属的な関係を持っていた。しかし、この度の改訂によって(1)は(2)以降と同等な目標に格上げされた。 *2
 情報教育の目標の3つの観点(情報活用能力の3つの観点)に照らしてみると、(1)は「情報活用の実践力」(以下、「実践力」)(2)は「情報の科学的な理解」(以下、「科学的な理解」)(3)(4)は「情報社会に参画する態度」(以下、「参画する態度」)に相当すると考えられる。
教科「情報」では特に「科学的な理解」と「参画する態度」に関する事項のうち特定の内容に重点を置いて科目設計されている(「情報教育調査研究協力者会議」)。*3 また「実践力」は教科「情報」でも育成を図るとしながらも、「総合的な学習の時間」において育成を図るものとされている。*4

「社会と情報」

(1) 情報の特徴と情報化が社会に及ぼす影響を理解
(2) 情報機器や情報通信ネットワークなどを適切に活用して情報を収集、処理、表現するとともに効果的にコミュニケーションを行う能力を養い
(3) 情報社会に積極的に参画する態度を育てる
 まず旧学習指導要領の「情報のディジタル化や情報通信ネットワークの特性を理解させ」という項目が削られ、「情報C」と比較して「科学的な理解」に関して比重が軽くなった印象を受ける。
 (1)では「情報の特徴」という項目が追加されており、具体的にはコンテンツ作成の実習を通じて学習していく。
 (2)では旧学習指導要領において「表現」や「コミュニケーション」は「コンピュータなどを効果的に活用する」ための条件に過ぎなかったが、「表現」、「コミュニケーション」を主たる目的に据え、「表現」だけでなく「収集」、「処理」にも光が当たった。要するに「コミュニケーション」と「コンピュータの活用」の主従関係が入れ替わったのだ。
 (3)では、かつて「情報社会に参画する上で望ましい態度を育てる」と表記してあった。「いかに参加すべきか」が問われていた以前とは打って変わって「参加すること」自体を目的としているのが特徴だ。
 信憑性、効率性、利便性に着目したコミュニケーション手段(主として情報通信ネットワーク)の理解や、それを活用した問題の分析や評価、ユーザビリティやガバナンスに着目した情報システムの分析や評価*5 、知的財産・個人情報保護を重視した情報モラル教育の強化が今回の改訂の特徴である。

「情報の科学」

(1) 情報社会を支える情報技術の役割や影響を理解
(2) 情報と情報技術を問題の発見と解決に効果的に活用するための科学的な考え方を習得
(3) 情報社会の発展に主体的に寄与する能力と態度を育てる
 旧学習指導要領では「コンピュータにおける情報の表し方や処理の仕組み」を理解させることが記載されていたが、完全に削除された形となった。また内容(2)の「コンピュータの仕組みと働き」についてはその一部が(1)ア、(2)イに移行されるに留まり、基本的に軽視される方向となった。
 (1)については基本的に変わりないが、内容で「社会の情報化が人間や社会に果たす役割と及ぼす影響」について考えさせるとあり、単に社会だけでなく、人間に対する役割や影響を考えさせるようになっている。
 (2)は「科学的な理解」に関する記述だが、問題の解決だけでなく、新たに「問題の発見」という事項が追加された。
 (3)は完全に新しく追加された項目で、「参画する態度」に関連すると思われる。全体的に「参画する態度」に関連した内容が増えている。「社会と情報」と異なるのは「参画」ではなく「寄与」であるという点である。
 「科学的な理解」についてだが、かつて「情報C」で取り扱われていた情報通信ネットワークに関連した事項が「情報の科学」で扱われることとなった(「情報B」では「情報の科学的な理解」はコンピュータの仕組みを理解することはほぼ同義であったと言っても過言ではない)。これと同時に情報技術のあり方について「使いやすさ」が軽視され「安全性」が重視されたのも特徴と言えるだろう。
 また今回の改訂の重大な特徴としては問題の発見を含めた「問題解決」に重点が置かれていることが挙げられる。

全体的に

 「情報A」が削除され、同一学年での履修が原則となった。
授業全体に対する実習の割合に関する具体的な規定がなくなり、「全体を通して体験的な学習を重視し、実践的な能力と態度の育成を図ること」となった。
 「技術的な内容に深入りしないように留意すること」という「はどめ規定」が撤廃され、「学校において必要がある場合には、この事項(各科目の内容の取り扱い)にかかわらず指導することができる」とする、移行措置もなくなった。
 情報モラルに関しては「知的財産や個人情報の保護などの情報モラル」といった具合に具体的に例示されるようになった。


雑感

 特に目立った変更点を挙げる。
(1) 「情報A」がなくなった
(2) 全体的に「情報社会に参画する態度」が重視され「情報の科学的な理解」が軽視された
(3) セキュリティ(安全)、知財保護・個人情報保護が特に重視された
(4) 「社会と情報」ではコミュニケーションが特に重視された
(5) 「情報の科学」では問題解決が特に重視された。
 (1):「情報科教育学会第1回全国大会」(昨年6月)のパネルディスカッションの質疑応答で会場の女性(恐らく現役教師)から「不登校できた生徒がいる」「『情報A』がなくなる事に対して不安です」と率直に不安を述べている。これに対して「小中(学校)レベルの内容を3年間の中で組み込めば」よいといった意見や、「各学校設定科目 でお願いします」*6といった意見が出された 。*7かなり不安である。
 (2):専門教科との差別化を意識したせいだろうか。「国民必須の素養としての情報活用能力」として普通教科「情報」を位置づけたかったせいなのだろうか。「参画する態度」を育てるのは大変いいことだと思うが、参加自体が教育の目標になってしまう事には何やら抵抗を感じる。
 (3)(4):特に最近、必要性が叫ばれている事項だろう。(4)のコミュニケーションに関しては「ネットいじめ」などへの対応の意味もあるのだろう。
 (5)の登場によって「情報B」の方向性が大きく変わった。コンピュータについて学ぶ科目から問題解決について学ぶ科目に転換したのだ。以前から「何をやりたいのか明確でない」と思っていた科目だけに、少しは希望が持てるかもしれない(どのように教科書がつくられるのか気になる)。「問題解決」に関する学習項目は「社会と情報」においても取り扱われることになる。

*1: 永井克昇「学習指導要領について―教科「情報」の方向性―」『日本情報科教育学会誌』Vol.1,No.1、2008、p.14

*2:学習指導要領改訂のポイントによれば、「(4)活用の重視」として、「情報の収集、分析、表現や効果的なコミュニケーション及び問題解決に情報機器や情報通信ネットワークを活用する学習活動を重視」と書かれている。

*3:文部科学省『高等学校学習指導要領解説 情報編』、開隆堂、2005、p.14

*4:上掲、pp.19-20

*5:内容(4)イ「人間にとって利用しやすい情報システムの在り方、情報通信ネットワークを活用して様々な意見を提案し集約するための方法について考えさせる。」

*6:必履修とされる科目の他に学校独自に設定してよいとされる科目。専門教科「情報」における各科目だけでなく、学校オリジナルの科目も含まれる。当然「情報A」を設定しても構わない訳だが。

*7:参考資料はその時のメモ書き。

消尽する譲渡権にはメセナで補償?

ブックオフが払う1億円について――Copy & Copyright Diary


あくまでも、著作権料ではなく、文化振興的な意味合いの金額なのです、という事ですが。


YouTubeニコニコ動画JASRACと契約したという話*1もそうなんですが(ITメディア)、コンテンツ産業の枠組みである限り、著作権管理団体を外してコピーライトを考えることが出来ないとつくづく思いました。
頭が固い所為か、古本屋と著作権の問題を考えるとき「消尽しない譲渡権」という発想から抜け出せなかった自分は反省すべきです。法的枠組みじゃなくて「企業メセナ」ですか。案外、企業社会側からの〈均衡・自浄作用〉の方がスマートなのかも知れません。
しかし気になる点があって、それは全ての著作物が著作権管理団体の管理下に置かれていない状況で、「企業メセナ」によるブレークスルーは妥当かどうかという点です。
著作物の活用を進めようと考えた場合、(著作者の意思は多様であるにもかかわらず)多様な窓口・多様なライセンス・多様な契約は利用者(主に企業)にとって負荷になるでしょう。


情報倫理の問題が企業倫理*2の問題に移行している??

*1:こっちの場合はそもそもが違法ですが

*2:当然、企業倫理の背景にはビジネスを展開する上での戦略とか、信頼性など企業イメージの向上とかがあるんでしょうけれど

子どもの自己決定権が尊重されるには大人も子どもも努力が肝要かも

 今回は静大あかつき寮での生活から「あ〜あ、自分って子どもだなぁ」と感じた経験談を紹介したいと思います。現状批判というより、自己批判がメインです。


 私の住むあかつき寮は自治寮です。つまり管理人がいない、自己決定権が認められた自治組織を持つ寮なのです。寮生は全て*1寮の最高意思決定機関(寮生総会)での議決権を持っており、又常任の役員による意思決定機関である寮委員会の構成員(役員)となるための被選挙権を持っています。
 今日、部屋の相方*2の父親から電話が掛かってきました。曰く、部屋が汚いから片付けていると。確かに最近、片付けを怠っていたのでその点は反省しているのです、いや本当に。プライバシー云々と言う気はないし、寧ろ自分がしっかりしていなかったばかりに相方の親の手を煩わせてしまって申し訳なく思います*3
 けれど彼は寮の体制に対して異議があるようでした。元の住人の荷物がそのままであること(不動産屋が仲介する場合はあってはならない!)や、会議に出席しないと反省文等の処罰があること(アルバイト欠席は認められない)に不満を感じているようでした。前者は寮自治会が引っ越しの干渉(監督)をしないため、後者は義務としての政治参加を強制(監督)しているためというのが現状です。
 彼(父親)は風紀委員会という、分かりやすく喩えると警察&司法を担っている執行機関*4に上記のことを訴えていました。結局、風紀委員だけでは彼と〈合意形成〉できず、警察(リアルに日本の警察です)に調停してもらい、彼には帰ってもらったそうです。そして明日、学校側に申し立てる積もりだそうです。


 先日の寮生総会では、少しガバナンス論を囓っているものだからいい気になって(夜間、寮に女の子を連れ込むことを禁止している現寮則*5の撤廃を求める議論の中で、大学側がいい顔をしないから止めておきましょうという寮長の応答に対して)「あかつき寮は自治寮だから、寮生が深い議論をして決めたことは尊重されるべきで、大学側と交渉する余地は十分にある」と偉そうな発言をしてしまいました。
 なぜ寮長が大学側の機嫌を窺っていたかと考察すると、大学側は寮生にとってパトロンであり、寮生は養われている・世話を受けている・看護されている存在で、何らかの活動がスポンサーの機嫌を窺うのと同じで、寮生は大学側の機嫌を窺う必要があるという当然の感覚に基づくものだと考えることができそうです。
 「法の下の平等」だとか「学ぶ権利」だとかを掲げて、貧乏な学生がちゃんと大学生活を送れるように寮の設置を求め、あるいは“廃寮攻撃”に抵抗し、大学側がその義務を認めたからこそ現在の寮がある訳です*6。つまり寮生の側が権利を主張する過程で形成されてきたのが今の寮なのです。
 大学側の仕事としては〈最低限〉の保障をするだけでよく、他は自治によって解決するのが本来のあるべき姿です。大学側による干渉は自治権の侵害です。相方の父親は恐らく〈最低限〉を巡って異議申し立てをしたのではないかと思うのです(後述)。


 部屋の散らかり具合に関して言えば、私と相方に責任があるというのが私の考えです。相方の父親の介入を許してしまったのは部屋を散らかしていたからです。しっかりしていない〈子ども〉は〈大人〉が世話を焼かなければならないという訳です。〈大人〉という人種は厄介で、経験豊かな上に〈保護者〉であるが故の絶大な権力を保持しています。言い争うのが面倒だからという理由もありますが「自治権」だの「〈子ども〉の尊厳」だのと批判するのは諦めました。
 ちゃんと部屋のガバナンスをすれば問題はないはずです。2人で約束を取り決めて、どこまでの散らかりを許すか(笑)について合意を形成して。「相方と相談して決めたいから余計なことをしないでくれ」と突き返しても良かったんですけれど、いや本来はそうするべきでしょうけれど、〈大人〉としての自覚が足らなかったのでしょうね。二者間では極めてパブリックな問題を有耶無耶にしてきた負い目もあります。
 親や教師の監督から反抗・抵抗・逃避することは妥当なことなのではないでしょうか。


 寮の制度として会議への出席が義務づけられていますが、罰則規定まで設けて〈自治〉を実現させようとしている理由は、実は寮生の殆どが〈子ども〉だからなのではないかと思いました。寮の〈自治〉を保全するため、風紀委員会というシステムが寮生を監督しなければなりません。システム自体は〈自治〉によって維持されているものですから、寮生は完全に従属的な〈子ども〉では〈自治〉を実現することは不可能です。「やらされる寮生」を「やらせるシステム」も寮生起源(oriented)ですから。すると寮生は〈子ども〉であるが、〈大人〉の部分を持っていて、寮独特の〈自治〉を形成していると分析することができるのではないでしょうか。


 相方の父親が問題とした〈最低限〉を寮生の中の〈大人〉が保障するのか、寮生の外の〈大人〉(大学側)が保障するのかは重大な問題な気がします。「何かあったら誰が責任を取るんだ」という常套句が何度耳を通過したことか。安全保障(セキュリティ)は特に最近、話題にされることが多いと思います。セキュリティは保護・監督以外の何ものでもありません。セキュリティの議論に〈大人〉になろうとしている〈子ども〉が参画できないものかと考える今日この頃です。自分のことも満足にできない甘ったれた私が言うのもなんですが、過保護な親が〈子ども〉を量産しているんでしょうね(いや、さすがに親に責任転嫁するつもりは毛頭ないですよ)。子どもどうしの揉め事は当事者解決させるのが〈大人〉の義務であるというのは私見です。

*1:寮に来て15日に満たない人と議長を除く

*2:あかつき寮は2人部屋で、共に部屋を共有している人を相方と呼ぶ

*3:弁明するわけではないが、もっと汚い部屋はたくさんある

*4:元来は戒告・反省文・放寮処分案の提出といった処罰の実行に関する仕事を担当しているが、実質モラルやマナーの啓発、寮内のトラブル調整なども行っている

*5:あかつき寮は男子寮である

*6:寮設置に関しては残念ながら私の身の回りに資料は見あたらないが、“廃寮攻撃”への抵抗運動に関しては「聖隷水際寮の廃寮攻撃に断固反対!」など幾つか資料がある――市寮協発行

情報学部でガバナンス論をやる意味

情報学部でガバナンス論をやる意味について考えることがあったので今回はそういう話です。普通、情報っていうとパソコンとかネットとかITのイメージがあるでしょう? ただIDプログラム*1ではそれ程ITを強調しないですし、元学部長が「石ころも(人によっては)情報」と言うように、〈情報〉とは意味するところの広い学問の対象になってしまいます。〈情報学〉はあらゆるものを対象にします、と言っているようなもので、〈情報学〉は学問全てを指し示すかのように感じられます。多様な専門分野の先生が集まるIDプログラムにおいては極めて都合の良い解釈だなぁと思った訳です。
一方で、「情報学部生なんだから少しは情報技術についての教養や関心を持ちなさい」みたいな事も言われる訳で、学生側としては「何でも〈情報〉じゃなかったのかよ!?」と戸惑うのです。


先ず、「CS=理系、ID=文系、IS=中間」というよくある理解なんですが、正確ではないと考えています。情報学部は仮にも文工融合を謳っている学部ですから、「CS=文系よりの工学系、ID=工学系よりの文系、IS=両方(選択可能)」と言った方がいいのではないでしょうか。CSの外側には工学部が、IDの外側には人文学部が広がっているのです*2。こうしたプログラム制の認識においては、「情報学部生なんだから少しは情報技術についての教養や関心を持ちなさい」という批判は説得力を持ちます。


IDでは(ISのように)システム設計・構築を目指しているのではなく社会設計を目指しています。以下は藤井先生のインタビュー記事です。

 IDプログラムは『情報社会政策プログラム』という案もあったんですよ。デザインか政策か、どっちにしても新しいものを作り出すイメージです。その意図は『文工融合』なんです。理学は真理探究だけれども、工学は(真理はあるけれども)とにかく新しいものを作り替えていく。社会科学も真理、現実はどうなっているのかといった観察・思考・解釈の学だったんです。『結局日本は階級社会だからダメなんだよ』と言っていても仕方がない。現実にどうやればもっと良くなるのか。解釈をして大袈裟な判断をするよりも、工学がやっているように『良い社会、良い社会』というように実践、デザインの観点を入れたい、そこで情報社会デザインプログラムができました。企業のデザインもあるだろうし、モラルのデザインもあるだろうし。
http://s1.muryo-de.etowns.net/~tanitoriTai/int/interview_community-design.html

情報学部の中でデザインに力点が置かれた〈文〉のすべきことは〈情報社会〉の設計・構築ということになりますが、〈情報社会〉を理解する上で、情報技術が人や社会に与える影響について理解する必要があるでしょう。けれど現代社会という文脈を外して考えることはできないはずです。(現在の)情報技術では解決できない社会の問題にも目を向けていかなければより良い〈情報社会〉は築けないと思います。
そこでどこまでを〈情報社会〉と捉えるかは人によって違ってくると思います。例えば情報学部では家族のありかたについて研究する人もいますが、その研究に一箇所もITが含まれていなくても〈情報社会〉という大きなうねりの中に家族の問題があるため(かなり)広い意味で〈情報社会〉のデザインと言えないこともないのです。
どこまでを〈情報社会〉の問題とし、どこまでをそれ以外の〈現代社会〉の問題とするのかという区別は非常に難しいと思います。例えば知財の研究を考えると、ITが登場しなくても〈情報〉についての研究だとは直感的に感じるでしょう。
そこで最大公約数としての〈情報社会〉デザインの基盤としてガバナンス論が登場したのではないかと考えています。計算機科学の人がより良いコンピュータを設計するためのアルゴリズムを学習するように、より良い(情報)社会を設計するためのアイディア(idea)を学ぶ必要があるからです。
vanyaの考えでは〈情報社会〉のデザインには3つのアプローチがあります。

  1. インターネットなどの情報技術を社会的にどう規制・活用するか(ITをガバナンスする)
  2. 情報技術を使って政治や経済、文化、市民活動などをどのように促進・支援するか(ITがガバナンスを助ける)
  3. 情報技術によって変革した社会をどう舵取りしていくか(情報社会をガバナンスする)

よく考えると3は1や2を包含しているのですが、特に3の場合は〈現代社会〉と見分けがつきにくい〈情報社会〉を指しています。また2についてISとの差異に気をつけて強調すべきなのは、ITの設計に際して与えられた目的に適合したプロジェクト・マネージメントの方法だとか、使用する言語は何にすべきかを検討するのではなく、システムが備えるべき機能やシステムが人や組織に対して果たす役割、プロジェクトの目的そのものの妥当性について検討するのがガバナンス論から見た発想なのではないでしょうか。
〈情報社会〉とは何かという根本的な問いになってしまうのですが……。


最近、議論がうまくできていないのではないかと不安な事が多いです。ガバナンスについてもとても理解できているとは言えません。参戦を求めます!

*1:ガバナンス論はIDプログラムのコア科目であるという認識を前提にしています

*2:学部名は静大の場合

公貸権制度――市民が育てていくクリエータ

公貸権の意義

演習ではかなり無理のある提題をして、受講者の皆さんを苦しめてしまったかも知れません。ですが、ガバナンス論として「蓄積され、利用されるコンテンツ」から見た情報社会の問題を公共性の切り口で提示することができたのではないかと思います*1。多少無理な提題でも、頑張ってその問題について考えることに意義があると思います。「無理だ」と思った時点でガバナンスはできなくなります。
提題者としての反省点は、海外事例のフォローが不十分であったことです。ブログ演習ポータルでも紹介がありましたが、日本語のWeb文献ではカレント・アウェアネスくらいしかちゃんとした文献がなく(2,3参考になったものはありますが)、Web以外の文献も(時間的な理由で手を出していないのですが)十分な質と量がありません(国立国会図書館Amazon静大OPAC)。はてブを見ても分かるように、日本では全くと言っていいほど話題になっていません。私が以前に書いた些細なエントリも、何故がブックマークされていますし。
権力の監視(知る権利)や文化振興(学習権・生存権)の観点から図書館は非常に重要で、またウェブ上で図書館的なサービスが発生しつつあるのだと思います*2
しかし一方で、コンテンツの質が問題になってくる訳で、真に市民のためになる情報(知識)が少なくなると、選挙において適切な候補者が選べなくなったり、日本人は教養がないと馬鹿にされたりする恐れがあります(極端な例ですが)。
市民は単なる情報の消費者に甘んじるのではなく、情報の質を評価し、クリエータを育てていく必要があります*3
将来的には指定管理者制度の問題よりも(利用者の意識まで踏み込むとしたら)ずっと重要な問題であるはずです。

「公と私」の観点から

公貸権(public lending right)が単なる著作権(copyright)と違うのは、「公共の福祉」にかかわるからだと思います。著作者の権利(author's right)であることに変わりはありませんが、著作者にとっては公立図書館に自著を「貢献させられる」訳で*4、「公共の福祉」(市民の人権)のために著作者の権利が制限されているという理解ができると思います。ただし、日本国憲法は「個人主義」の立場をとっているらしく、水戸黄門の印籠のように徒に「公共の福祉」を掲げて良いわけではないようです(その辺はあまり詳しくないのですが)。ですから「公共の福祉」を前提にしつつも、著作者の権利と「公共の福祉」の間を調整するために著作者に権利(公貸権)を認めるべきだという議論が成り立つのではないかと思います。
つまり純粋に私的な権利を出発点とする著作権(copyright)と公的な権利を出発点とする公貸権(public lending right)とは性格が異なり、ややこしいですが公貸権は「公的な権利を保障するため、個人の権利を制限することへの補償を受ける権利」という解釈もできるのではないでしょうか。
文化保護政策的な観点からは、そもそも「公共の福祉」のために「みんなでお金を出し合いましょう(国家基金の場合は税金)」という発想で、「補償」を経由せず、公共*5による私的領域への干渉を許容する訳で、クリエータは始めから公的性格を持った生業ということになります(少なくともジャーナリズムが私的活動だと言われたら嫌ですけど)。
公貸権は著作者が公共に対して自動的に貢献することを認めさせる仕組みです。文筆家団体は公貸権導入に賛成で、自らが公共性を帯びた職業だということを認めた(と思う)訳ですが、他の著作者達がどのように考えているかは分かりません。
レンタル(レンディング)に関する権利を占有したいという著作者の気持ちを公貸権によってどこまで補償するかが課題なのではないかと思います(例外的な「拒否権」も含めて)。

*1:同時履修中の「情報倫理と法」の理解の深化という意図もあったりして……

*2:ウェブの場合、情報の信頼性の確保が出版社などによるフィルタリングではなく、Web2.0的なやり方になるでしょうし、コンテンツのク制作に一般の人が参入しやすい訳ですが

*3:これはある意味コミック・マーケットの思想に近いかも知れない

*4:著作権法第二十六条の三(貸与権)の規定があるにもかかわらず、同法第三十八条の4によって無償貸与の場合に限って著作者の権利は制限されています。

*5:利用者負担の場合であっても制度化を伴うため、国家や地方公共団体が主体と考えられる

メタデータの標準化

色々考えてみたのですが、いまいち考えがまとまらないですね。ただ検索エンジンを利用するときに「市民」なのか「消費者」なのかって考えさせられましたね。あるいは「ネット参加者」なのか「ネット利用者」なのかということについて。「インターネットは道具である」と単にいう場合、利用者なのでしょう。「インターネットはみんなでつかう道具である」というとガバナンス論っぽいですね。
いずれにしても、情報学部における「ガバナンス論」はあの1時間半だけでは済まされないと思います。「標準化の重要性がよくわからなかった」というコメントを聞いて、勿体ないなと思いました。
メタデータ技術というのも取っつきにくかったと思います。「何のためのメタデータか」という目的が明確でないと何がしたいのか分からなくて頭の中が???で一杯になります。今回のエントリでメタデータの意義みたいなところまで踏み込めたらいいなぁと思います。
全体を通して、割とぐだぐだですが。

インターネット・ガバナンスについて

インターネット・ガバナンスの主要な話題だったと思います。
インターネット・ガバナンスの定義についてISOCの説明を引用します。

"Internet governance" is a broad term used in many different contexts, applying to activities as diverse as coordination of technical standards, operation of critical infrastructure, development, regulation, and legislation, among others. Internet governance is not restricted to the activities of governments. Many different types of stakeholders have a role in defining and carrying out Internet governance activities and ISOC has always been an active leader in such discussions.
Internet Society - Public Policy - Internet Governance

英語だと分かり難いので訳しました*1

インターネット・ガバナンスは広い意味をもった用語ですが、実に様々な文脈で適用されます。技術的な標準であったり、極めて重要な技術基盤事業であったり、技術発展であったり、技術に関する規約や制定など多岐にわたる活動で適用される用語です。活動そのものだけでなく多種多様なコーディネートにも用いられます。インターネット・ガバナンスは政府の活動だけに限られたものではありません。1つではなく色々なタイプの利害関係者がインターネット・ガバナンス活動において立場を明らかにして役割を持ち、ISOCは先ほど述べたような話題において、積極的にリーダーの役割を果たしてきました。

ISOCというのはインターネットの技術に関する政策、標準、教育などに関わる活動を行っているNPOですが、インターネット・プロトコルなどが書かれたRFCを発行しているIETFの上部組織とも言われています。非政府組織なので、提案された「標準」には強制力はありません。RFCは「コメントください」の意味で、提案に対する意見を求めるIETF側のインターネット・ガバナンスへの姿勢がうかがわれます。
ISOCは企業、学術機関、政府機関、個人などが集まってつくられた団体です。


WWW(ウェブ)の「標準」を提案しているNGOとしてW3Cがあります*2。Webの生みの親として知られるティム=バーナーズ=リーが参加している団体です。これも非政府組織なので、提案された「標準」に強制力はありません。IT関係に限らず、工業を中心として「標準」を定めているISOもまた、非政府組織です。

標準化について

標準化プロセスについてはid:redtail2733講義資料が分かりやすいと思います。メリット・デメリットについては演習ポータルサイトが分かりやすいです。ネットワーク外部性の話は、ある会社の提案する「標準」が消費者の益になるかどうかという市場社会の枠組みの”外部”的な問題によってデファクトスタンダードになってしまうという例だと思います。
情報技術の標準化の例だと、例えば文字コードがあります。CJK統合漢字とか。中国と日本と朝鮮の漢字を1つの体系に入れて扱おうという提案で、似ていたり意味が同じである漢字は統合されています。例えば「わたなべ」の「なべ」の字が正確に表示されなくなったり、重要な歴史史料を電子的に表現する際にコンピュータ(の知識マイニングとか意味抽出とか)で処理不可能な画像データに頼るか、正確な表現を諦めるしかなくなってしまいます。このことにより、日本文化を世界に発信していく際に、幾らかの*3障害が発生する恐れがあります。
しかし文字コードは標準化しないと使えません*4
今回のディスカッションで「標準化はよくない」という意見が2班くらいから出ていましたが、これは標準に拡張を認めない強制力がはたらく場合に限定した議論だと思います。
Googleはブログ等のCMSで生成されるXMLRDFなどに依らないインデックス化を行うでしょうし(より便利にするため)、標準化が行われても独自のインデックス化は行われるでしょう。その意味でGoogleと標準化は「対立するものではない」という話題提供者のコメントは正しいと思います。ただ、企業がインデックスを行う(しかもアルゴリズムが非オープン)ことはメタデータに何の客観性(公共からの裏付け)もないことを示します。とはいってもデジュレスタンダードの問題もありますが……。

メタデータについて

メタデータというのは情報資源のカタログです。図書なら目録だし、WebページならURLです。ある情報にアクセスするための手段なのです。
最近、TVCMで「続きはWebで」という表現をよく見かけます。一昔前はTV画面にURLが書いてあるだけでしたが、最近は検索キーワードと共にGoogleなどの「サイト検索システム」を利用することを前提として情報アクセス手段を教示しています。つまり検索がURL入力の代替手段となっている訳です(当たり前だけど)。
Googleによるガバナンス論のカタログ」「MSNによるガバナンス論のカタログ」「百度によるガバナンス論のカタログ
メタデータは一般的に「データについてのデータ」と言われています。例えばある情報資源の作者やアップロード年月日、発行機関を示すデータです。いわゆる検索エンジンはwebサイトの重要度を勘案してインデックス化(情報資源のコピーにメタデータを付ける)を行い、ユーザにカタログ(検索結果)を表示するそうですから、「MSNや百度的には『ガバナンス論』というキーワードにおいて吉田先生のブログは重要度は高いが、Googleはそうでもない*5」という結果になります。
Googleメタデータ(インデックス化)によってWeb全体を組織化して、ある意図をもってユーザに世界を見せようとしています(そこまで極端に政治的とは考えられないですが)。まぁ実現しないとも言われるセマンティックウェブの完成を待つ間はGoogleなどの検索エンジンに頼るのがベターな選択かとは思いますが、情報の消費者(聴衆)としては。ただ、検索エンジンに依存したユーザ囲い込み型のサービスなどが市場のヘゲモニーを握ったとき、どこまで消費者の権利が守られるかは興味があります。
ちなみにURLもメタデータなのですが、DNSが管理していますし、標準化されています。こればかりはGoogleも従うしかないでしょう。検索エンジンの検索結果もURL(というかURI)の上に立脚したサービスなのです。

なぜメタデータの標準化なのか

重要なステークホルダーは情報発信者だと思うんですね。
検索エンジン側もそこまで非道いことはしないと思いますが、検索エンジン側によるインデックス化はWeb全体を単一のデータベースとして捉えて、メタデータによってあるwebページをその中に位置づけることですから、あるwebページが紹介される文脈がメタデータによって決定されることになるので、極端な場合、著作者の権利が侵害されてしまいます(あくまで極端な話)。
コンテンツ消費者としては納得のいく情報アクセス過程を望むのではないでしょうか? メタデータを全てのコンピュータが可読な形になるように記述して、「こういう文脈で使って欲しいんです」という著作者の表現の可能性を増やす機会として、メタデータの標準化に関する議論をしていくべきなのかなぁというのが今の私の考えです。
消費者がメタデータを付けていくフォークソノミーはまた別の論点で。

*1:carrying outがうまく訳せなかった

*2:インターネットとWWWの違いで混乱された方はこちらを参照。

*3:正確にはどれ程問題であるのかは分からない

*4:勿論、単一の文字コードではないですが、あまりに統制がとれていないとコミュニケーションが困難

*5:むしろ「がまん神殿」の方が重要度が高いらしい

地域共同体と学校博物館――博物館と共に開く市民性――

ふと学校図書館はあるのに学校博物館というのはないなぁと思いまして、Googleで検索してみましたら、それっぽいのがありましたね。


法律では定められていないですが、学校の空き教室を利用して「まちかど博物館」のように地域の博物館が学校という施設を利用して博物館を運営するものらしいです。
茨城県「茨城自然博物館進化基本計画(PDF)」には近隣の学校の余裕教室を活用し,博物館の情報や周辺の自然環境の調査結果等を展示する「スクールミュージアム」の整備を進めますと記されています。
基本的に学校図書館は学校が設置・運営するものですが、ここでいう学校博物館は地域の博物館と学校とが連携して運営するものです。同基本計画では学校教育との連携について以下のようにも書かれています。

  • インターネットやテレビ電話などの通信手段の普及に伴い,それらを媒体に活用し,博物館と学校を結ぶ双方向の新たな学習支援システムの構築を図ります。
  • 中・高校生の博物館活動を支援するため,ジュニア学芸員制度の充実を図ります。

浜松市の自然・科学系の博物館である浜松科学館でも「サイエンスボランティア」という制度があり、殆ど全て中学生の手によって講座のロボットが制作されたこともあります。
学校博物館やITの後押しで、学校とは別個にある教育機関*1が児童・生徒にとってアクセス可能(容易)な”距離”になったという点は評価できると思います。学校とは異なった”おとな社会”との接点ができることで生徒達は学校に閉じこもるだけでは得られないより深い学びができるのではないでしょうか。


少し論点から逸れますが、上記基本計画では「地域との連携」として以下の実施計画が記述されています。

  • 博物館と博物館友の会との連携を一層推し進め,博物館の教育普及事業等への友の会ボランティア部の積極的な参画を図ります。
  • 博物館友の会の組織を一層強固なものにするため,法人化を視野に入れた組織の強化を促進します。
  • 地域パートナーシップの確立によって,市民参画を中心とする博物館活動を充実させていきます。

浜松市にある浜松市博物館(歴史民俗系)においても、「蜆の会」という市民団体があり、勉強会*2から発展して、次第に博物館全般にかかわるボランティア団体のような組織になり今に至っています。
学校の外との接点を持つことで、もしかしたら学校以外の社会に関心を持ち、生徒達の市民性*3が育まれる可能性が期待できるかも知れないです。
少なくとも、学習の役に立てることは可能でしょう。博物館教育の充実が不可欠ですが。

*1:博物館は社会教育施設の1つ

*2:自信ないけど確か、古文書の勉強会だったと思う

*3:ここでは主体性や地域社会に対する愛着など